蜉蝣の微熱(南郷+赤木) 暑さに拍車をかけるように、耳障りな蝉の声が絶え間なく聞こえる。真上からの日差しに照らされ、道には建物の影がない。先を歩く南郷からまた距離が離れた。さっきまではすぐ後ろを歩いていたはずなのに。自分で思うよりも、足が進んでいないのかもしれない。暑さから逃れ身を寄せることも出来ずにただ歩き進めば、少し俯いて歩く癖のある自分の汗ばむ首筋が、ジリジリと焼ける感覚。つと、蟀谷から頬を汗が伝う。見下ろす己の影が足元で蹲っている。僅かばかりのその影に、頬から離れた汗が吸い込まれて行くのを、ぼんやりと見送った。 「――アカギ」 影が迫る。不意に遮られる視界。はっとして顔を上げるのと同時に、目の前を覆う大きな掌。流れる汗を拭われ、そのまま額に張り付く前髪を掻き上げられる。 「大丈夫か?」 いつの間に傍まで来ていたのか。遅れ気味の自分に気付き、わざわざ戻って来たのだろうか。 「…南郷さん」 「ん?」 遅れたことには触れず、南郷はゆっくり目を細め、暑いな今日は、と笑った。向かいに立つ南郷の影が赤木に重なり、降り注ぐキツイ日差しが和らぐ。知らず、ほぅと息をつけば、更に南郷が身を屈め赤木の顔を覗き込んでくる。 「平気か?・・・まさか熱射病じゃないだろうな」 髪を掻き上げた手が慌てたように、もう一度頬を擦る。その南郷の掌は赤木の顔を隠してしまいそうなほど大きく、硬く、そして、優しかった。少し無骨な指先が持て余したように、薄く閉じた赤木の目にかかり、睫毛を揺らした。 「何云ってるの。平気だよ」 「…そうか?」 心配気な声を滲ませる南郷に両手で顔を挟むように支えられ、耳から首筋まで撫で上げられると、赤木の背筋が震えた。甘い、痺れだ。 痺れは触れられた首筋から全身に伝わる。まるでそれは泣き出す前の、つんっと鼻の奥と耳の下が痺れる感覚に似ていた。自分はこのまま泣いてしまうかもしれない、と思った。何故なのか、理由は解らなかった。その手に懐く仕草で頬を寄せ、暑いんだ、と一言口にするのが精一杯な自分に気付いて、少し吃驚する。 「すぐ先に煙草屋があるぞ。何か飲むか」 南郷の云う煙草屋は、ここからふたつ程先の角にある小さな煙草屋のことだ。分厚いガラス眼鏡をかけた老婆がいつも座っている。その煙草屋はラムネ水を置いていた。使いで来た子どもが貰う駄賃を見越してのことだろう。 南郷は赤木を使いに出したことはなかったが、自分が買いに出たついでに何度か一人で待たせて悪かったな、とラムネ水を買って帰って来た。そして、夏の日差しに当てられ、少し温くなったラムネ水が喉を滑り落ちる時になって、いつも赤木はあの部屋で待っていた時間が淋しかったのだ、と気付くのだ。南郷には伝えたことはなかったけれど。 「・・・こおり」 「ん?」 待っている時は感じない淋しさを、南郷が戻って来たことで実感する。ああ、そうだ、あの時も何故だか泣きそうになるんだ、俺は南郷さんといるとどうしてこんなにも弱くなるのだろう。 温いラムネ水が躯に溶け、甘い何かが広がる。それは南郷から教えられた、大切な何かだったが、赤木にはその名前が解らない。南郷と出会って初めて知ったものだった。 「氷、食べたい」 赤木の子どもっぽい云い方に、南郷が頬を弛める。再び掌で熱い頬から蟀谷を擦れば、指先に汗と少し湿った髪が絡んだ。 ゆっくりと撫でる指先は、まるで擽るように赤木の顔の輪郭を辿る。 「甘味屋は・・・まだ遠いぞ?」 南郷は少し困った表情を見せて、口を開いた。 「・・・氷がいい」 もっと他に云うべきことがあるはずなのに、伝える言葉が見付からない。 「しんどくないか?結構歩くぞ?」 あらゆる全ての言葉を忘れてゆく自分が信じられない。どうして、こんなに。 「歩ける」 繰り返し優しく触れる、それでも戸惑う南郷の指先に、気付かぬふりをしてそっと頬を寄せた。馬鹿みたいに、たどたどしく喋ることしか出来ない。 こくり、と肯けば、南郷はそうか、と笑った。 普段は隠して見せない赤木の子どもらしい我が儘も、物言いさえも、南郷にはその全てが好ましく、そして誇りに思えた。天上の神々に愛された天才が、自分だけに見せてくれているのではないか、と。頬の緩みがいよいよ口許にまで広がってくるのを感じて、また赤木に何を云われるかと少し焦る。子どもなのだから、子ども扱いしてもいいだろうに。・・・子どもだから嫌なのか、と思い返す。そういえば南郷にも覚えはある。この頃は早く大人になりたかったものだ、と。 触れた頬から離れるのを惜しむ己の指に、南郷は強く手を引くように命じた。それでも離そうとした手は赤木の肌を求め、無意識に目の前の小さな頭をくしゃり、と撫でた。赤木の頭は本当に小さい。まだまだ成長していくであろう子どもの躯だが、こういった基本的な骨格はそう変わるとも思えなかった。だがこの小さな頭の中は、常人には想像もつかない才気で満ちているのだ。 少し長い前髪を掻き揚げ、掌を髪の中に進めれば、そこは汗でしっとりと湿っていた。そうしている間も大人しく赤木は目を伏せたままだった。 いつまでも日差しの強い往来で立ち尽くしている訳にはいかない。今度こそ本当に赤木の熱から手を引く努力を南郷はしなければならなかった。 じゃあ行くかと踵を返す先で、ぐいっと後ろから引っ張られて、つんのめる。見れば赤木の両手が南郷のシャツを掴んでいる。思わぬ形で引き留められた南郷は、一歩踏み出した足を急いで引き戻した。 「アカギ?」 シャツの背中をぎゅっと掴んで放さない赤木へ、南郷が後ろに首を廻らせる。 「やっぱり辛いんじゃないのか?」 こんな暑い日に赤木を連れ出したのは拙かったのかもしれない、と南郷は殆ど日に焼けていない白い肌を見て後悔した。白磁の如く色素の薄いこの子どもは、ろくろく健康的な日焼けなどというものには縁遠いように思えた。上体を捻り左腕をあげ、背中にしがみ付く小さな子どもの頭を抱え寄せる。赤木はそのまま懐く仕草で、南郷の背中へと額を押し付けた。 「どうし・・・?」 「・・・ここ、日陰だから」 続けて口を開きかけた南郷が、赤木の言葉と伝わる息遣いに黙り込む。すらりと真っ直ぐに伸びる華奢な手足は、その白さもあって何処か少女のような艶めかしさであったし、身長差の加減で、こうして上から見下ろす赤木の形良い後頭部から項の細いラインは、いつも南郷の心をざわつかせた。 変わらず赤木は南郷の背中へ貼りつかんばかり――というか南郷のシャツを掴みそのまま背中に額を押し付けるようにして歩いていた。いくら日陰だといっても、こうもくっついていては反って暑いんじゃないか?と思う。その上、歩く足を上げるたびに後ろにいる赤木を蹴り上げてしまいそうで、南郷は気が気でない。 「なあ、アカギ。・・・歩きにくくないか?」 「南郷さん歩きにくいの?」 「そりゃ・・・まぁ・・・歩き易いとは云わんが」 この暑い日中に出歩く人間はそうはいないだろうが、誰かに見られたら確実に妙な光景だと映るだろうな、南郷はそっと溜め息をつく。 「・・・暑くないか?」 「南郷さん暑い?」 「・・・いや・・・お前がいいなら・・・構わんがな」 ただ、この背中から伝わる微熱を手放すには、余りにも惜し過ぎたから。 「・・・まぁ・・・お前がいいなら、良いさ」 後ろの赤木を蹴り上げないようにと、気を付けながら南郷は、そのぎこちない歩幅をゆっくりとしたスピードに変えた。 Today's they only as for this. 060912 しげるは自覚無自覚を含めて、本当に南郷さんのことが好きだといいな、という思いを込めて。色々と戸惑う思春期。 061120 我が儘云える相手がいることの倖せ。本当は少し怖い。 忘れた頃にそっと更新。 誰が覚えてんねん…いっそ更新しなくてもいいんじゃ…と思いながら。 |