贐の詞(市川+赤木) 100万。あの市川との勝負で手にした金だ。 中学生には過ぎた金だ、と安岡は云ったが、赤木にはよく分からなかった。たとえそれが千円いや百円だったとしても自分には一緒だろうと思った。 第一、自分には欲しい物などない。車、女、酒。まして豪華な食事さえもどうでもいい。興味はない。南郷と安岡が話している金の使い途など、頭の上をすり抜けるばかりだった。 なんで金なのかな、もっとあるだろ。そう、お互いの躰。腕一本、なんなら目を掛けてもいい。代用が利くものなんか価値はないのに。 違う。 価値の有る無しで勝負するものじゃない。所詮ギャンブル。そこで得るものなんか無意味だ。意味が、価値があるのは相手と向かい合っている、その瞬間だけだ。その刹那だけ自分に価値を、意味を持つことが出来る。存在することが出来る。忘れていた呼吸を自分に思い出させる。 土手に座り込んだ赤木の視線の下には、濁った河が流れていた。家庭塵、どこから流れて来たのか分からない大きな廃棄物。それらが澱のように溜りながら、流れはただ静かに進んでいる。 赤木は手を伸ばし、指に挟んだ紙飛行機を河の方へと飛ばした。風に乗って空に飛んだ紙飛行機は、河の中程までも行かず力を失った様に落ち、そののまま汚泥に巻き込まれ、河口へと流れていく。 再び赤木は紙飛行機を飛ばす。また落ちる。流される。 ああ。あれは俺だ。 藻掻くように、流される紙屑。いや、藻掻くことすら許されず、ただ息も吸えずに朽ちていくだけの。 紙飛行機は何度飛ばしても、対岸へは届かない。赤木は傍らに置いた紙、そうそれは昨日手に入れたあの金だ――に視線を落とした。 一向に減らない。 また紙飛行機を折りながら、自分は誰に折り方を習ったのだろう、と考える。親だったか?・・・それはないな。そこまで考えて急に馬鹿馬鹿しくなった。関係ない。誰に教わったかなんて判らなくても、こうして折ることができる。 自分がこの先、何で埋められるのか解らない、この暗い虚無を抱えて生きて行くように。 もう幾つ折っては投げしたか分からなくなった頃、赤木はすぐ傍の橋の上を、向こう岸から歩いてくる人物がいることに気付いた。その人物の顔がはっきり見えてきた時、知らず自分の躯が震えるのを感じた。 足音は聞こえない。代わりに石橋に響くような、硬い音。規則正しいリズムで打ち付けられる、あの音は。 ──杖の音。 折りかけの紙飛行機がくしゃり、と手元で乾いた音を立てた。 橋を渡り終えた市川は右手に折れ、赤木が座り込んでいる方へと土手道を歩いて来る。握り絞めた紙飛行機が、じっとりと熱を持つ。それは昨日の熱を思い出させた。騰がり始めた熱のままに、赤木は市川を睨み付ける。だが市川は真っすぐ前を向き、その歩みは変わらない。 そういえば、と思い出す。この男は眼が見えていなかったのだと。どんなに睨んでも視線が合わないのは当然だ。 ただ、忘れていた。昨日の夜に触れた市川の熱、殺気、そして狂気に。 近付く杖の音。石の上で響いていた杖の音が、土道では違って聞こえるのに赤木は気付く。──湿った音だ。 「儂に何用か?」 そのまま通り過ぎるのかと思った市川が、ぴたりと赤木の傍で足を止める。見上げる市川の顔が逆光でよく見えない。サングラスの縁に反射する光に、赤木は眼を細めた。 「・・・目、見えてるの?」 「?その声・・・あん時の小僧か」 市川は首だけこちらに向けて寄越す。 「そうだよ。・・・ねえ、目、本当は見えてんの?」 「はっ、何言ってやがる」 確かに市川のサングラスに遮られた視線は、まだ座った赤木の遥か上に向けられている、が。 「・・・じゃあ」 「あんな明ら様に意識をこっちに向けてりゃ、目明きでなくも気付くさ」 そう云った市川の見えていないはずの眼が、正確に自分を捉えた。 「帰らなかったのか?」 昨日の今日だ。ましてこの早朝にこんな所に居るのだ、簡単に想像はつく。 「・・・悪いかよ。爺さんに関係ねぇだろ」 「まあそうだ」 ふふ、と市川は笑う。 「ねえ、市川さん。あんたもこんな朝にウロついてるってことは暇なんだろ?」 「暇とは大した言い草だな」 「なんだよ。違うって云うの」 「年寄りは朝が早いんだ。朝の散歩は、まあ日課だな」 その言葉を聞いた赤木が呆れた様に口を開いた。 「年寄り・・・馬っ鹿じゃないの」 赤木の言い様に市川が楽しそうに笑う。まるで子供だ。 「何笑ってんのさ。あんたみたいな年寄り、いて堪るかよ」 「ふふ。そういう小僧、おまえは何をしておるんだ」 笑いを収めきれない市川が反対に聞いてくる。 「・・・別に」 そう云った赤木がふと手にした紙飛行機に目をやる。あの時握ったままだったそれはもう、紙飛行機の形を留めてはいなかったが。 「市川さん」 「なんだ」 「紙飛行機って折れる?」 「・・・何?紙飛行機だと?」 「うん。さっきからどうしても上手く飛ばないんだ」 向こうの川岸まで飛ばしたいんだけど、と困った様な口振りに、見える訳ではないが、赤木が口を尖らせて拗ねているのが手に取るように分かった。 なんだ。本当に子供ではないか。川原で紙飛行機を飛ばす赤木。目の見えない市川は、この子供の風体は判らない。ただ恐ろしく色が違うのだと──髪も肌も抜けるように白く、目はそれを嘲笑うかのように赧い──そう聞いていたから、どんな餓鬼かと思っていたが、何のことはない、本当に13歳の子供だ。 程なく赤木の隣へと腰を降ろした市川は、手渡された紙の正体に気付く。 「・・・・おい小僧、これは」 「何?」 「札じゃねえか」 手を巡らせて辺りを探れば、そこらじゅうに札が散らばっている。この手触りは高額紙幣だ。 あの時の金か。 「触って分かるものなの?」 目の見えぬ人間も買い物ぐらいはする。ましてや市川の収入の殆どは高額紙幣で入ってくる。云えばそれで生計を立てているのだ。手にする機会はそこらの人間より多い。 そんな当たり前の事に、純粋に感心している様子に呆れるが、問題はそこではない。 「こんなモノで遊んでやがったのかクソ餓鬼」 「なんだよ。説教でもしようっての」 苦々しく口を開いた市川に、赤木が突っ掛かってくる。 「アカギよ・・・・」 そこまで言い掛けて市川は声を止めた。一つ息を吐く。 本当に何を云われているのか解らないに違いない。確かに市川も金の亡者でも信者でもないが、少なくともこんな扱いをしていいと思う訳はない。 気に食わない相手からの金でも金は金だ。それぐらいの分別は付く。手元に置くのも嫌なら何かに早々に使ってしまえばいいだけの話だ。 いや。そこで思い至る。 この狂った子供は欲しいものなどないのだろう。例えそれが一時の欲であろうとも。 「まあ確かに、車や女、家。そんなもの餓鬼には端から縁遠いものかもな」 ククと笑いながら告げると赤木は、餓鬼、餓鬼さっきからうるせぇな、とくさったように吐き捨てる。 「ねえ、飛行機。折ってくれるの?くれないの?」 何処のお子様だ。その様子が市川には可笑しくて仕方ない。 「・・・・いつまで笑ってんだよシジイ」 いい加減イラついてきたのか、赤木の声が一つ低くなった。だが、それさえも市川にしてみれば子供が駄々を捏ねているようにしか聞こえないのだから、凄味も何も感じない。 「クク・・・・良かろう。教えてやるさ」 長い市川の人生でも札で紙飛行機を折った事などない。大概破天荒な金の使い方をしてきたものだが、なかなかどうして。 「お前は馬鹿だが面白いよ」 「折りにくいな」 「作りやすいのでいいよ」 「飛ばなきゃならんだろうが」 「折り方で違うものなの?」 「そうだ」 「・・・・へえ・・・・色々あるんだ、折り方って」 また変な所で感心してやがる。思わず笑いが吐いて出たのを、目ざとく赤木に見つけられる。 「本っ当よく笑う爺さんだな」 呆れるぜ、と毒付きながらも、手元を覗き込む気配は変わらなかったから特に怒っていることもないのだろう。 「そら出来た。しかし飛ぶか分からんぞ。なんせ盲のシジイが作ったんだ」 「ふふ。やけに弱気じゃない」 「グダグダうるせぇ餓鬼だ」 「シジイの笑い声よりましさ」 ああ云えばこう云う。全く口の減らない。 「ねえ早く飛ばしてよ」 「儂がか?馬鹿を云うな。そういうことは子供のすることだ」 「駄目だよ。最後まで責任持ちなよ。俺が飛ばしたから駄目だった、なんて云われたかねぇよ」 「・・・・云うかクソ餓鬼」 「ほら。いいから、早く」 実際、眼の見えぬ市川は、そそままでは何処へ向けて飛ばせばいいのか、皆目見当も付かない。そう伝えると赤木が市川の紙飛行機を持つ腕に手を添えた。さっきよりも近づいた為か、赤木の匂いが濃くなって市川は気付く。 紛れもなく子供の匂いだ。そして子供の肌。 どうしようもない程の確かさで、それは市川に伝えた。この眼が物を映さなくなってから、それ以外の感覚が鋭くなったが、それでも昨日の狂った気配すらそこには見付けることすら出来ない。 「うん。この辺りでいいんじゃない」 腕を持ち上げ、その角度と方向を自分で決めて、赤木が嬉しそうに教えてくる。 「手、離しても平気?覚えた?」 やはりどこまでも透明な声に、あの狂気の蔭は少しも溶けてはいなかった。 そうして気付く。 この子供は初めから壊れているのだと。破綻し狂い、静かな嵐がその内には渦巻いているのだ。恐らく赤木自身もまだ気付いてはいない、闇。不純物が混ざっていないのなら、その中の違いなど判るはずもないのだ。全てが余りにも純度の高い狂気。だからきっと赤木はこの先も、清廉な空気を纏い、綺麗なまま生きて行くだろう。誰にも何にも侵されることはない、孤高の狂人として。 それは美しいが孤独だ。だが本来、世界を凌駕する天才とはそういうものだ。
060413 しげるの「2.3日遊んでパー」に触発されたtext。あの、しげるの「パー」って口が可愛い過ぎて、どうしてやろうかと思った青い春。 |