荊姫の憂鬱(赤木→市川)


 自分が昼過ぎにその家を訪れた時、家主は不在だった。

 いつもふらりと気の向いた時にしか来ないのだから、そういう時もある。冷やりとした玄関戸に背中を預けながら半刻ほど待ち呆けて、まだ戻らないので裏庭へ回った。庭へと続く古い木戸を押しやると、目の前には大きな桜の木。花は全て散り、青々とした葉が風に揺れている。そのまま足を進めれば母屋だ。部屋みっつ分の縁側、その一番左側の部屋の硝子戸には鍵が掛かってないのを、自分は知っていた。縁側の石の上で靴を脱ぎ、年季の入った硝子戸に手を掛ければカラカラと苦も無く開く。無人の家屋は気温の上がり始めた外と比べ、ひんやりとした空気に満ちていた。鍵の開いている部屋は普段使われていない部屋だ。家具も何も置かれていない。歩く度に擦れた音をさせる陽に焼けた畳だけ。独り身のくせに大きな家に住んでるんだね、と、いつか市川に云ったことがあった。あの時、市川は何と答えたのだったろう。少し考えたが思い出せない。忘れてしまった。忘れてしまったことが無性に悔しいと思った。市川とのことは何も忘れたくなかったはずなのに。市川は覚えているのだろうか。咄嗟に覚えていたら嫌だなと思った。そんなのは許せない。自分は忘れてしまったのに市川だけが覚えているなんて許さない。それでもやっぱり思い出せなくて自分に腹が立った。
 視線の先の土壁に小さな疵。
 土壁は爪を立てて触れば壁が小さな粉となってパラパラと削れて落ちる。この疵は自分が先週付けた痕だと思い出す。あのときの市川はいつもより酷く自分を扱った。どうにもならない程に追い詰められて手に触った壁に思いきり爪を立てた。その痕に人差し指の腹を押し付け辿る。土壁のざらりとした感覚。何故か市川の乾いた節の目立つ掌を思い出して、先程よりも強くその痕に指を押し付け爪を立てる。そのまま力任せに勢いのままなぞり下ろせば摩擦の熱と引き攣れる様な痛み。更に深く疵の入った土壁に赤い色が増えたことに満足する。市川は気付くだろうか。そんなことを考える自分が可笑しくて小さく笑う。一体何処で自分はそんな風に造り変えられたのだろう。チリチリと痛む指を添え、額を堅くざらついた土壁に預ける感覚に市川の冷たい肌を想像する。普段は元より、自分に触れているときでさえ温度の騰がらない肌。自分がいよいよ前後不覚になる頃に、漸く追い付いてくる市川のその、熱を思い出す。目の前にある血の滲む指を舐めれば口腔に広がる鉄の味。これが生きている証だ、と自分に云ったのはあの盲目の老人ではなかった。そんなことは思い出すのに、市川の言葉が思い出せない。
 早く市川が帰って来ればいい、そう思った。
 
 
 ゆっくりと畳の上を歩く足音が近づく。市川の足取りは部屋の隅で眠る自分の場所が見えているかの様だ。傍へ膝を突き手を伸ばしてくる気配がするが、まだ微睡む意識から覚醒できない。節の目立つ大きな掌が自分の頬を摩った。市川の好む煙草の匂いがする。半分眠った状態のときに撫でられるのは嫌いじゃない。目を開けず、微睡む意識の中で上滑りする様な感覚に酔うことを自分はこの盲目の老人から教わった。大抵この状態の自分は躯中の力が抜けていて、手を伸ばしてくる老人のされるがままだ。それを市川は己の気の済むまで撫で続ける。普段自分の意識があるときは、あちこち噛み付いたり引掻いたりと暴れ回るから市川も扱いやすいのかもしれない。揺蕩うまま、もう何度目か判らない気をやる瞬間に、市川の詰めた息と熱が降り注いだ。 

 いつも次に目覚めたときには自分の見繕いは綺麗にされていて、畳の上にそのまま寝ていたはずの躯も布団の上に寝かされている。面倒がなくていいと思うが発散されきれない熱を新たに自覚する。市川さん、出した声は寝起きで擦れて半分しか出なかった。少し離れた処で市川は煙草を燻らせている。すぐにでも市川の熱に触れたい気もしたが、天日に干されていたらしい布団に鼻先を押し付けると、柔らかく陽の匂い。再び微睡みかける己の意識を感じ、掛布と枕に半分埋もれて沈むようにして市川を見遣る。今晩泊まってってもいいでしょ、言葉は明瞭に伝わっただろうか。分からない。目蓋が酷く重い。逆らわずそのまま目を閉じると、ぐずぐずと躯が布団にのみ込まれていく様だ。もう一度市川の名前を呼びたいと思ったけど、それも叶いそうになかった。
 沈みゆく眠りの端で市川が笑った様な気がしたが、それも良く判らなくて自分はもう駄目になってしまったのだと思う。でもそれでもいいと思う自分はやっぱり可笑しくて、ああそうか自分はこの男のことが好きなのだと、それだけは解ったからもういいやと諦めた。


Today's they only as for this.
060811
無言で描かれていることの多いしげるですが、ぐるぐると市川さんのことを考えるしげる目線で書きたくて、意識的に文調や改行を変えてみました。読み難い上に気持ち悪い仕上がりでスミマセン。句読点、飛ばし過ぎだよ・・・。
060828
色々思い立って改題。