15億回目の鼓動(市川+赤木)


 夢を、見ていた。
 
 市川が、話している。

『象でも鼠でも、一生のあいだに打つ鼓動は、同じ15億回だ』

 違う。これは記憶。

『地上に生きる限り、命はこの有限性から逃れることは出来ねぇのさ』

 いつか市川が自分に話してくれた、命の話だ。

『だからこそ、ニンゲンて奴は「時」ってモンを、畏怖してきたんだろう』

 あれは、いつだ。

『・・・お前はどうだ?アカギよ』
 
 
 
 
 顔も見たことのない輩に絡まれるのは日常茶飯事で、おそらく目立つこの容姿や立ち振る舞いが気に入らないのだろう、ということぐらいは理解していた。
 いきなり喧嘩をふっかけられることもあった。夜道ならまだしも昼日中から暗い脇道や、茂みに引き摺り込まれそうになったこともある。そうやって数え上げればキリがなく、得てして暇潰しにはおよそ足りないが、付き合ってやらなくもない。
 ただ、喧嘩腰で向かって来られるより、ある種の目的を持って絡んでくる輩の方がやっかいだ、と思っていた。いや面倒臭いと云う方が正しい。自分の幾ばくも行かぬ年にしては何処かオカシイのだろうが、特に守る操でもないと思っていたし、それこそ暇が潰れるのなら何でも良かった。しかし、その手の輩は一度許すと付け上がって、まるで自分を手に入れたかのように振る舞うのだけが、許せなかった。

 何をしても満ちない。心が乾いていく。
 鼓動は動かない。
 
 
 


 
 今まで傍にあった市川の熱が離れて、赤木は一瞬の墜落から引き戻された。身を起こした市川が枕元に手を伸ばし、煙草に火を点ける。ひと息吸い込むと、暗い部屋にチリチリと鳴く明かりが揺れた。
「…いちかわ、さん」
 搾り出すように散々と酷使された声は、咽喉で絡まり、掠れる。その声に市川は振り向かず煙を吹かすだけで答え、先を促したようだった。
「市川さんて…幾つなの?」
「…何だ。藪から棒に」
 それを視線の先に見、赤木は横臥したまま口を開いた。
「このまま市川さんと一緒にいたら、きっと俺は…早く死ねる気がする」
 再び口に付けようとした、煙草を持つ市川の手が止まる。
「…何の心配してんのか知らねえが、テメェよりこっちの身が保たねえさ」
 吐き出される煙が暗い天井へと立ち昇り、消えた。
「…市川さんが死ぬとか考えられない」
「ああ?どういう意味だ、そりゃ」
「実感がないっていうか…なんだろ」
 生きるもの全に与えられた一生分の鼓動は決まっているのだと、いつか市川から寝物語に聞かされたあの話。
「テメェのことは死ぬだのと云っといてか」
「…ああ。…うん…そうだね…なんでだろう」
 なんでだろうね、赤木は繰り返し、ごろりと市川の方へ寝返りをうつ。
「お前、寝惚けてんのか」
「…ふふ」
 小さく笑う赤木の手が、身を起こした市川の背に触れた。もう先程の名残はその背にない。冷えた皮膚。骨の感覚。伝わる鼓動。命。
「市川さん」
「…今度は何だ」
 皆同じ数だけ刻み続け、命あるその全ては死ぬ。逃れられず、必ず。
「…市川さん」
 そうだ。自分も、この目の前の男さえも。
 触れた手はそのままに、赤木は静かに目を閉じた。
「オイ」
「…うん」
 鼓動の全てをアンタの為に使えればいい、と云えばこの盲目の老人はどうするだろう。
 どうもしない。きっと鼻で笑われて、相手にされないのだ。それでいい。己の馬鹿な感傷だと解っているのだから。でも、もっと早く。全力のスピードで。このイカレタ心臓が動き出せる、何かを。
――そして。
 鼓動を止める、胸を貫く矢の軌跡が、アンタから放たれるのを待っているんだ。

 繰り返す鼓動の、最期の15億回目を。




Today's they only as for this.

060811
時計ブランドのカタログにあった『15億回の脈拍』が元ネタ。市川氏の薀蓄もそこから。