終点を懼れて(南郷+赤木)


 昭和39年。照りつける太陽。停滞する空気。皆、押し並べて喧しく声を荒げ、忙しくなければ罪悪であるとばかりに人々は働き続けた。戦争が落としていった影を、それは掻き消そうとしているかのようでもあり、粘つく重い暗い何かを引きずっているかのようでもあった。そんな、時代だった。
 そして俺は願っていたのだ。――アカギ、お前を。


 


 アパートの錆びた鉄階段を足音で響かせながら上がる。その二階の一番奥が南郷の家だ。
 角部屋で窓が一つ、他の部屋より多いのが気に入り、大家と来た下見時に借りると決めたが、西日がきつく差し込む夏がくるたびに異常に騰がる室内温度には手を焼いていた。
 それでも仕事に行っている日中は元より、残業を抱えている南郷が直接夕方の西日に当たることは殆どなく、ただ疲れて帰ったその部屋の、むせ返るような熱気だけが、この時期の南郷を少し憂欝にさせていた。
 そしていつも夏が近づくと南郷は考える。この陰欝とした思いが夏の熱気などではなく、身も心も焦がす青い炎に焼かれた遠い記憶のせいだ、と。
 そう。13歳の赤木しげると出会った、あの雨の日の季節が、また巡って来ようとしていた。

 

 赤木と過ごした、暑い夏の終わりを思い出す。
 記憶の中のお前はいつも同じで、華奢な肩、その背中。牌を操る長く細い白い指。子供らしからぬ白銀の髪。死の匂い。狂気。それ以外の──卓に向かっていない時のお前といえば、俺の部屋からぼんやりと窓の外を眺めているか、西日で色褪せた畳の上で眠ってばかりいた。
 お前は何故か決まって部屋の一番隅、それも壁に擦り寄って眠った。自分の手足を小さく躯にしまい込んで蹲り、その姿はまるで胎児のようだった。眠り続けるお前の呼吸は本当に静かで、息をしているか、と何度確かめただろう。馬鹿な話だ。
 確かにお前は気狂い、暗い淵を覗いている子供だったかもしれない。しかし本当は、あの頃のお前の躯はそういった子供しか持ちえない残酷さと無垢が、矛盾なく混ざり合うことで造られていたように思う。
 部屋の前まで来ると、少し思考は散漫になった。やはり疲れているのか。今日も日中は暑かった。
 南郷は背広の懐を探りながら、汗ばむ掌で生温く伝わる部屋のドアノブを握る。つと視線を胸元の手からドアへと上げ、そのままガチャリ、と引き開ける。と、同時に漏れる溜め息。
「──アカギ。朝、俺が出た後は、鍵を閉めておけと云っただろう」
 声を掛けながら入った部屋は暗かった。電気が点いていない。
「アカギ?いないのか?」
 靴を脱ぎ、そのまま暗い部屋を進む。
 青く光る部屋。
 ――月が。
 大きな月が窓から見える。そこから差し込む月明かりで、青白く浮かび上がる部屋。
「アカギ」
 視線を落とし、部屋の奥の壁際――赤木が眠っている。
 子供の頃と同じだ。南郷は口元を綻ばせた。蹲るように小さく折り曲げた手足は、確かにあの頃の子供のそれではない。6年ぶりに会った赤木は、背も伸び、顔立ちも大人びてはいたが、こういう所は変わらずだった。
 だが何も大きくなったこの躯ででも、こんな壁際で眠らなくても、と思う。
 ネクタイを緩めながら、ゆっくりと部屋を横切り、押入から夏物の掛布を出す。襖を開ける際にガタリ、と立て付けの悪い音が響いたが、赤木は目を醒ますことはなかった。
 

 
 
「・・・南郷さん?」
 奥で声がする。
「起きたのか?」
「・・・ん。・・・いつ帰ってきたの?」
「あー。2時間ほど前かな」
「・・・そう。全然気付かなかった・・・」
 まだ眠りから醒めきっていないのか、眠そうな声だ。赤木は眠気と戦っている時、何処か口調が少し幼くなる。
 あの頃と同じだ。
「よく寝てたからな。そうだアカギ、お前また鍵閉めてなかっただろう?」
「・・・そう、かな。・・・覚えてないや」
 身を起こす気配。古い畳が擦れた音を立てた。
「俺の部屋には盗るものなんてないがな、お前が一人でいる時はちゃんと閉めとけ」
 大体・・・と続けようとした南郷より、赤木が先に口を開いた。
「・・・何してるんです?」
 少し目が醒めてきたのか、明瞭な声に変わりつつある。
「え、ああ。酒飲んで肴つまんでるんだ」
「・・・何で?」
「酒が入るとどうも腹が減ってな。お前も食うか?どうせ何も食わずだろ」
「違ますよ。そんなの聞いてない」
「・・・どうした?」
「電気」
「ん?」
「どうして電気点けてないんです?」
 部屋は暗く、月明かりだけが南郷と赤木を照らしていた。薄暗い中で、南郷の持つ煙草だけが唯一、人工の光だった。
 南郷は赤木の言葉で、初めて部屋が暗いと気付いたかのように、ぐるりと部屋を見渡す。
「ああ・・・。そうか。帰ってきたままだな」
「・・・気付いてなかったの?」
 呆れたような赤木の声。――可笑しい。南郷はこの暗さに目が慣れていたから、その惚けた赤木の顔もよく判る。なんだ、そんな顔も出来るんじゃないか。
「よく寝てる子供がいたからな」
 可笑しくて、からかう素振りで返す。
「・・・南郷さん」
 その声に、いよいよ堪えきれなくなって、南郷は吹き出した。赤木が小さく口の中で何事か呟やく。どうせ下らない悪口だろう。気にすることもない。
「ははっ。なに、月見酒さ。偶にはいいもんだ」 
「・・・南郷さんには適わないな」
「何云ってるんだ。アカギ、お前も呑むだろ」
 ほら、と手招きすると、じゃあお言葉に甘えて、と赤木は南郷が座る横へ腰を下ろした。 
「やっぱり暗いな。電気点けるか。」
 立ち上がり、電気のコードに手を伸ばそうとした南郷の服が引っ張られる。
「アカギ?」
「このままで」
「・・・いいのか?」
「うん。・・・月が」
 窓の外を見上げる赤木の顔が月光に照らし出され、南郷は思う。
 類い稀なる狂気と才気を納めるには華奢すぎる躯も、作り物めいて見える赧い瞳も、月明かりに溶けそうな白い髪も横顔も。
「・・・すごく大きく見える」
 ――ただ、今は19歳という青年の面影だと。
「誰かと月見酒なんて、したことなかったですけど・・・」
 くすぐったいような、その言葉にさえ、南郷は赤木を思う。
「いいもんだろ」
 この子供が、幸せであればいい――世界がそれを許すはずもないと、知りながら。
 奥の部屋に無造作に放り置かれた鞄に目をやる。明日になれば、また赤木は何処かへ行ってしまうのだろう。得体の知れない多額の金と、僅かばかりの私物が入った、あの小さな鞄と共に。
 それでも自分は願わずにはいられない。
「なあアカギ・・・」 
 この一瞬の月光浴に。


 どうか――。

 ――神様。




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060417
寝起きで機嫌が悪いしげるも可愛いと思います。しかも目が開いてから30分ぐらい記憶がないとか。