白夜(市川+赤木)


 そっと裸足のまま庭に降りた。土と草が足裏に吸い付いて少し、こそばゆい。庭の中ほどまで歩き、目を閉じる。あと少しで堕ちようとしている太陽が目蓋の裏に残った。完全な闇は訪れない。あの男はどんな風に『見えて』いるのだろう。

   
 音が、聞こえる。今迄は気にしたこともないような小さな音。何か判らぬ不明瞭な雑音。何処から聞こえてくるのかさえ見当がつかない、反響する何にか。蟀谷が痺れるほど奥歯を噛み締め、集中して一つ一つを辿ろうとするが、音が溢れ過ぎ酔いそうになる。これを頼りに市川は世界を認識しているのか。孤独な作業だ、と思った。それでも塀の向こう、家の前を通る道から聞こえる、人の足音、声、自転車がキィキィと鳴り走る音。数多の生活の気配を必死に探し出す。探し出したその音は、今迄この目で見て覚えていたものを、その音に重ねて解るだけの音だ。あの男とは違う。
 不意にざぁ、っと頭上で木がざわめく。葉が踊り、枝が揺さぶられているのが解った。だが、傍らに植わる木が若い葉と撓る枝を擦り合わせるそれは、直ぐに周り全ての音を掻き消す。

 世界がぐるぐると廻り躯ごと持って行かれそうな感覚に、何も判らなくなった。
 
 
 
「おい」
 目を開けずとも、この音は瞬時に解った。己の世界を変える音。心臓が大きく一つ、どくん、と波打つ。
「何をやっておる」
 ふらりと迷い猫のように訪れる自分を、殆ど碌に構いもせずに放っておくのが常のこの男が、珍しいことするものだと思った。庭へ向かったものの、いつまで経っても戻って来ない餓鬼を気にしたとも思えないが、ああ、そうか、裸足で庭に降りたのが気に入らなかったのかもしれない。後でそのまま母屋に上り込まぬよう釘を刺しに来たのだろう。・・・よく解ってるじゃないか。散々に土草を踏み荒らした足で寝床に押し入ってやろうと思っていたのに。
 男の質問には答えず目を開ける。男は憮然とした表情で腕組みをし、綺麗な立ち姿で縁側にいた。見えていないはずの目と視線が絡む。もう一度男の口が開きそうになるのを見て、また目蓋を引き下ろした。そして目を閉じたまま今度は両手で耳も押さえる。掌をぴたりと押さえ付けると、耳に吸い付くようにして閉じた。
 外の音は消え、男の声も随分と遠くに感じて判らない。太陽も堕ちてしまって、もう目蓋には残っていない。でもそれは闇ではなかった。代わりに何か、ごうごうと唸る音がする。どくどくと響く音がする。掌から心臓が流れ込んで来る。
 
 氾濫する河で溺れているようだった。
 眼も耳も潰れはしなかった。
 
 
 
 市川さん、そう声に出して、今日この家に来て始めて男の名を呼んだことに気付いた。そうしてから両目を開き、相変わらず縁側で佇む男へと近づく。
 足裏で小さな石がじゃり、と鳴った。高いところにある顔を見上げるために、咽喉を晒し口の端を引き上げ続ける。市川さん、今日が七夕だって知ってた?庭から見上げる男の姿はいつもより遠く感じる。
「七夕って、裁縫とかさ、字が上手くなるように祈る日だって・・・知ってた?」
 途端、市川の顔が鷹揚に歪む。隠そうともしない舌打ちが聞こえて、男の口が開くのをじっと見つめた。
「儂にはどちらも関係ねぇな」
「そうさ、盲のアンタにはね」
 自分は目も耳も潰れなかったから、アンタと同じものになれないから、

 だから、

「俺が代わりにやってやるよ」





For example, I will carry out such a talk.

070707
一応七夕text?(聞くな)
殺伐とした雰囲気にしたかったのに玉砕(裁縫と書道って・・・)。普通におじいちゃんと孫の会話やん・・・。ありがちな同化願望ネタですみません。