浸透圧4(天赤)


   どうにかこの我儘な御仁を宥めて、上体を引き起こした。肩からズレ落ちそうになるシャツを捕まえて襟元を合わせる。指先に触れた肌が冷たい。
 元から体温の低い人だ。――そう云えば。初めて触れたとき、熱に潤んだ瞳と冷えたその躯の温度差に酷く悔しい思いをした。
 誘うようにわざと扇情的な目をするくせに、誘われて触れる自分の熱が伝染らない強情で薄情で、極上の躯。
「ボタン」
 オンナの其れではないが、色の香る薄い唇が小さく開く。しかし、微かに見え隠れする濡れた舌先に視線を奪われ不埒な想像で手が止まっていた俺は、その口から零れた短い言葉を捉え損なった。
「は?」
「ボタンも留めろ」
「・・・はい」
 本当に何もかも極上です、アンタ。


「なんでボタンの一つや二つ留められないんですか・・・」
「・・・誰のせいだと思ってる・・・」
「アンタが不精だからじゃないの?」
 もう座っているのも嫌なのか、くたり、と薄い躯が凭れかかってくる。小さな頭が肩口に乗せられて、髪が汗で湿っているのが分かった。
「ちょっ、ほらシャンとして。ボタンが留めづらいでしょう」
 その言葉に、いやいや、と云うように肩口で蹲る額が擦り付けられて、
「〜っお前がいつまでもネチネチネチネチネチ終わらさないからだっ・・・!」
 吐き出す息が冷えた皮膚を熱く嬲る。
 無意識だろうその仕草に、思わず両腕に衝動的な力が篭りそうになるのを、ぐっと堪えた。
 ああもう。
「・・・たくさん云いましたねぇ」
 ネチネチのイントネーションを丁寧にも全部変えて云ったよ、この人。可愛いなぁ。アイタッ、ちょっと噛まないで下さいよ。

 後は寝るだけだから留めるボタンは一つ二つ、と云うのは建て前で。本当はこの後また遊んでもらうつもりの俺はボタンをおざなりに留めた。そこでふと思い付いて、子どもの頃もこうだったんですか?と疑問を口にしてみる。
 しまった。
 口に出してから、その内容に顔を顰める。
 前後の文脈を端折り過ぎだ。
「・・・何がだ・・・?」
 聞かれた赤木は何が何だか解らないのだろう。戸惑い気味に、それでも律儀に聞き返してくる。しかし語尾が怪しくなってきた。いよいよ眠気がピークにきているのかもしれない。
「子どもの頃に、こんな風にシャツの釦を留めてもらったりしたことありますか?」
 こんなに我儘だったんですか、とは流石に聞けなかった。それでも赤木さんはちゃんと判ったらしく、ふふん、と鼻で笑われた。すいませんね、意気地がなくて。
「赤木さんはアレですね」
「・・・今度は何だよ」
「甘えるのが下手なのか、そこが狙いで巧いのか判りづらいです」
 それとも本当に天然とか?だとしたら相当タチが悪い男だ、と天は思う。自覚ねぇんだろうな、この人。知らず溜め息が吐いて出た。
「意味が解らねぇが・・・。大体いい年の男が甘えてどうするんだ・・・」
 心底げんなりした赤木の声が、天の肩口でくぐもって響く。
「心配されるの、本当は好きですよね。こうやってボタン留めてもらうのだって、好きでしょ」
「何云って・・・」
 う、ん、と詰まった声で続くはずの眠気と戦っていた語尾の怪しさが、不意に、途切れた。
「ああ・・・、いや、」
 曖昧な響きはそのままで、腕に抱き込んだ躯が少し強張るのに気付く。
「どうしたの?」
「・・・何でもない」
「何でもないようには見えませんけど」
 ごそり、と肩口に摺り寄せられた小さな頭が動き、離れようとしたから咄嗟に掌に力を入れて引き止めた。

「――天」

「悪かった」
「・・・何がですか」
 聞き返す声が撓んで震えそうになったから、出来るだけゆっくりと口を開いた。
 この人が怯えてしまわないように、言いかけたその言葉を閉じ込めてしまわないように、そっと声に出して聞き返した。




090212

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